ある日の放課後、月下騎士会の執務室に顔を出した紅原が見たのは、執務室の応接セットのソファで眠りこける環の姿だった。
 色々あった高二の一年を超え、無事に進級できた紅原は蒼矢から役職を受け継ぎ、現在月下騎士会会長となっている。
 環も彼の親衛隊として、月下騎士会の仕事の補助をしてもらっているため、頻繁に執務室には出入りしていた。
 なので、ここに彼女がいる事自体は不思議ではない。
 しかし、柔らかい革張りのソファによりかかり、無防備に寝姿を晒す環に、誰が入って来るかわからない場所だけに、物申したい気分の紅原だった。
 ともあれ、西日の傾いてきた室内。
 暖房が聞いているとはいえ、こんなところで寝こけていては風邪をひく。

「環ちゃん、環ちゃんってば」

 紅原は名前を呼びながら軽く揺するが、環は起きる気配を見せない。
 そのうち、するりと髪が流れ、環の顔に落ちかかったので、救って耳にかけてやった。
 その時見えた、寝顔はあどけなく、微笑ましさを誘う。

 なかなか起きない環に悪戯心が湧いてくる。
 紅原は環の横に座り、頭を引き寄せ、彼女のこめかみにキスを落とした。
 今度はくすぐったかったのか、微かに呻くが、やはり起きない。
 続いて鼻の頭、頰と口付け、最後に唇を啄めば、漸く環がうっすらと目を開けた。

「……あれ、円? どうして……」
「環ちゃん、おはようさん」

 そう言って、再びこめかみにキスを落とすが、寝ぼけているのか目をこする環の反応は鈍い。

「ん〜、おはようございます。でも、どうしたんですか? 確か、帰ってくるの明日じゃ……」

 聞かれて、ここ数日の出来事を思い出し、憂鬱な気分になる。
 紅原は、四日前に親族の集まりに呼び出され、先程まで本家にいた。
 あまり良い思い出がなく、関わりたくない本家だが、父親が名ばかりとはいえ、その当主であり、母親ともども、生活の面倒も一部見てもらっているので、完全に無視も出来ない。
 一族の集まりに必ず父親は出席するように言われていた。
 行かなければ父親ではなく母親が嫌味を言われるため、紅原はこの時期の集まりにだけは父親を引きずって参加するようにしていた。
 放っておくと、すぐに行方をくらます父親を見張るのは紅原の勤めで、一年に一度のこととはいえ、毎年嫌な役目である。
 それでも今年は、叔母が父親の目付けを交代すると言ってくれて、一日早めに帰れたので、まだましだった。

 それでも十分、気の滅入る数日の出来事に目を閉じれば、ふと頬に触れる指に気がつく。
 驚いて現実に目を戻せば、環だった。
 環は未だトロンとした瞳で紅原の頬を撫でている。
 珍しいと思いつつ、彼女の高い体温が心地よく紅原はされるがままになる。

「大丈夫ですか?」
「……なにが?」
「なんかつらそうな顔してる」
「……そんなことないよ」

 確かに本家にいる間はしんどかったが、学園に戻って、環に触れれば、憂鬱な気分も忘れられる。

「本当ですか? 去年のことで何か嫌味を言われたんじゃ……」
「まあ、まったくとは言わんけど、それは自業自得やからね」

 環を含め、己の弱さに周りに迷惑をかけた去年の出来事は、当然一族の集まりでは槍玉に上がった。
 おそらく細かく語れば、あの出来事を自分のせいだと感じている環は気に病むので深くは語らない。
 それでも不安そうな様子の環に紅原は安心させるように微笑んだ。

「ほんま、大丈夫やて。それより、なんや眠そうやね。夜更かしでもした?」
「そうですね。ちょっと昨日寝るのが遅くて……なんだか、ものすごく眠くて」

 そういう間も頭がグラグラする環にくすっと笑みをこぼす。
 環にもっと触れたくなって、彼女の頬に手を当てて、彼女に軽くくちづけた。
 追い詰めるような熱情を含んだものではなく、かすめる程度のくちづけをいくらか交わすが、環の反応は相変わらず鈍い。
 それにちょっとがっかりしながらも、されるがままになるほどこちらに気を許す環というのも珍しく、紅原はもう少しこのままでもいいかと思い始める。
 他人に見られるのは我慢ならないが、この場には自分しかいないし、問題ない。
 自分によりかからせるように引き寄せる。

「もう少しなら、寝ててええよ」
「円は眠くないんですか?」
「俺は別に……」
「嘘、ですね」

 何故かそこだけはっきり否定されて苦笑いした。
 確かに指摘されていたとおり、ここ最近まともに寝れていなかった。
 ただでさえ居心地の悪い本家に紅原は良い思い出がない。
 まだ、周囲の悪意に防御の仕方もわからなかった時代、暗い場所に閉じ込められたり、親族に罵られたり小突かれたりした記憶が根深く残り、様々な悪夢が続いて、深く眠れなかったのだ。

「情けないよなあ。そう簡単にやられへん程度の力はつけたと思ってのやけど。気持ちばっかり小さな子供見たいになってしもうて、悪い夢ばかり見るんはあかんね……」

 普段なら環相手に言いたくない愚痴が口につく。
 それは環が寝ぼけてよく聞こえていないのをいいことに漏らしてしまう程度には、精神的にきていたようである。
 すると、環がとろんとした視線で紅原を見上げてくる。

「夢見が悪くて眠れなかったんですか?」
「まあ言ってみれば……」
「……だったらこうするといいんですよ」

 何を思ったのか環はふわりと笑って、突然紅原の頭を掴んで、自分の膝の上に持っていく。自然、上体を倒れて、紅原は横向きに環の膝を枕にする体勢となった。

「ちょっ、環ちゃん?」

 ぎょっとして、起きようとする紅原の耳を環が手で軽く抑えてきた。
 いつにない状況に紅原は呆気にとられる中、環の意味不明な言葉が耳朶を打つ。

「これで大丈夫。黒い狐は悪さ出来ません」
「……なにそれ」

 聞けば、これは環が小さいころ聞いた悪夢よけのおまじないなのだそうだ。
 環によれば、悪い夢を連れてくるのは二つ頭の黒い狐らしい。
 狐は左右の耳から悪い夢を見る呪いを吹き込んで、人に悪夢を見せるのだという。
 しかし、呪いは左右の耳から吹き込まないと悪夢は見ない。
 膝を枕に横向きに眠れば、片方の耳を塞ぐことになり、狐は両方の耳から呪いを吹き込めず、悪夢を見ないと言う。
 それならば、別に膝枕でなくてもと思うのだが、思いの外柔らかく良い匂いのする枕を手放すのが、惜しい気がする。

 思わず緊張にじっとしてしまえば、ふと頭上から規則的な呼吸が聞こえてきた。
 そっと頭をずらして見上げれば、環が眠ってしまったのだとわかる。
 本当にどうしたのかと思うほどの、環の寝ぼけようだが、顔に当たる陽の光を感じて、紅原はふと昔祖母の家にいた猫のことを思い出した。
 その猫は母親の独身時代からいたという赤毛の猫だった。
 今は亡き母方の祖父可愛がっていたらしく、当時から祖父以外に媚びる様子を見せなかったという。
 紅原が小学生だった頃、母親の体調が思わしくなく、療養の為、家族で祖母の家で生活していた時期があった。
 その時、その猫はまだ生きていて、当然のように、紅原には懐かなかった。
 それどころか触ろうとすると、毛を逆立て威嚇してくる。
 爪を出して引っかいてきそうな様子に不用意な怪我をしないよう当時から言い含められていた紅原は近づくことができなかった。

 そんな猫は決まって祖母宅の縁側に置かれた座椅子に丸まっていた。
 そこからめったに動かない猫を紅原はずっと不思議に思っていた。
 しかし、今ならわかる気がした。
 きっとあの座椅子は祖父のもので、猫はその膝で丸まっていた時代を懐かしんであそこにいたのだろう。
 大好きな人に触れて、見上げながら、眠れる幸福。
 猫はきっとこの幸福を知っていたからこそ、相手がいなくなったとしても、それに浸り続けるためにあそこから動かなかったのだ。

 だが、そこまで考え、紅原は環の膝から頭を起こした。
 眠る環の横に寄り添い、抱き寄せれば、環は僅かに身じろぎするが、抵抗することなく、紅原の腕の中に収まった。
 くたりと力の抜けた肢体は暖かく柔らかだ。
 その体が暖かく、聞こえる寝息に心が安らぐ思いに満たされながら、紅原は彼の猫の最後に思いを馳せた。
 高等部に進学していくらかした日、猫は死んだ。
 その遺骸を見つけたのは、紅原だった。
 縁側のいつもの席でいつも通りに丸くなっていた猫に、今だったら撫でられるかと思い、手を伸ばした時、その体が冷たくなっていることに気がついた。
 老衰だったようだが、祖父がいなくなり最愛の人をなくした猫はどんな思いで、最後の時を迎えたのだろう。

 たとえ、思い出があったとしても寂しかったのではないだろうかと思う。
 少なくとも今の紅原には環が死んだ世界など考えられない。
 だから猫と同じ視線で環を見上げたくないと思った。

 幸せな思い出なんかいらない。思い出だけじゃ生きていけない。
 ただ、そばに、隣にあってほしい。環に望むのはそれだけだ。
 まだまだ自分たちは若く、死など随分先の話だろうのに、それだけは強く思った。
 環の体温を感じる場所だけが自分の居場所だと思うから。
 紅原はそっと環の頭をそっと引き寄せ、その耳に唇を寄せる。

「どうか、自分より先に死なないで」

 懇願に似た願いは環に届いたのかどうかわからない。
 ただ眠る環は変わらず、紅原の腕の中だ。
 返事がどうあれ、それに紅原は満足する。
 環の寝顔を見ていたら、なんだか眠たくなってきた。
 紅原はあくびを漏らし、少しだけ、と目を閉じた。

 


 これ書いているとき、ものっそ眠くて。

なので、ものすごく時間かかったSSです。秋眠暁を覚えず。いろいろ設定変なのはご容赦ください。眠ねむ(__)。。ooOZZZZ

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